wakuzoのブログ

ブログというより過去の思い出日記

寝れないから任天堂との歩みを振り返る③〜1人の空間とルール破り、追い打ちの3DS〜

現在時刻は1:44。過去二回より早い書き出しだが、今日は一度寝て目が覚めてしまって今。多分もう朝まで寝れないだろうと思い書き始めた次第である。そろそろ生活習慣を戻そうと思ってはいるのだが、一度ぶっ壊れたものはなかなか簡単には治ってくれないらしい。明日(というか今日)は朝10時からサークルの電話会議なるものがあるため寝坊は厳禁なのだが、この調子でいくと朝に寝落ちして寝坊か、良くても会議までは起きているが会議中に寝落ちするという未来しか待っていないだろう。関係各位には先立ってこの場で謝っておく。ごめんなさい。

高校以前から僕のことを知ってくれてる人は「サークルなのに電話会議って、お前今何してんだよ」という感想を抱くかもしれない。高校まで運動神経悪いなりに何とか運動部で頑張って来た僕であったが、大学でまで運動部を続ける気にはなれず(正確には部活に入るとO方くんという上手な高校同期が先輩になってしまう事実に耐え難かった。別に彼は悪くないけど)今ではゴリゴリの文化系サークルに身を置いて、しかもかなり精力的に活動しているのである。(サークルの詳しい内容については説明が難しいので割愛するが、たまに自分でもなんでここに自分がいるのかわからなくなるくらい真面目な活動をしているサークルであり、みなさんが期待するような酒と性に溺れるサークルではないこと、誰に対してか分からないがお詫び申し上げます)


ところで、何故生活習慣が治せないのか。危機感があれば意地でも治すだろ。という声があるかもしれない。これについて言い訳するなら、悪いのは弊学の教授陣である。以前からネットに弱いことで有名で、度々ツイッターなどでもおもちゃにされてしまう弊学であるが、中でも僕の所属する理学部の教授陣はネットに弱い。まぁ、世の理に迫ろうとするあまり俗世から置いてかれているというなんとも皮肉な構造の中心にいる彼らに「いんたーねっとを駆使して授業を行え」と言う方が土台無理な話なのである。案の定ほとんどの授業は準備が間に合わず休講になり、当然リアルタイムの授業など存在しない。起きなければならない使命感も危機感も持つ必要など無いのである。よって生活習慣が治せないのも仕方がないのだ。僕は悪くない。

(ちなみに僕は一年生の頃全ての単位をきちんと取得し、卒業に必要な単位のうち半分近くを既に収めており、決して勉強に不真面目というわけではないことは声を大にして伝えておく。)


さて、では今日は何を書くのか。この任天堂シリーズ多分次回でひと段落するのだが、今日は誰しも一度は体験したであろう「親とのルール」について書こうと思う。

1回目のブログでも書いたのだが、僕がDSを買い与えてもらった時、「1日30分、2時間まで貯金可」というルールが親と交わされた。当時はマンション暮らしで個室を与えられてなかったため、ゲームに触るのはリビングであった。当然親の目がそこにはあり、親がいる手前タイマーできっちり30分測り、それとにらめっこしながらゲームをする、という形が取られていた。最初は律儀に守っていた(破るとゲームを取り上げられる為)僕であったが、人間とはなんとも欲深く悲しい生き物である。最初は30分でも嬉しかったはずが、しばらくすると30分では満足できず、なんとかして親の目を掻い潜ろうとする。

・タイマーを途中でわざと止めそれに気づかないふりをし、親に「長くない?」と言われた時わざとらしくタイマーを見て、「あれ?止まってた。何分から始めたっけ?えーと…」といい時間をちょろまかす。

・「昨日実は今日のために20分でやめたんだよねー」などという大嘘をわざと大きな声で先に言い、タイマーを40分にセットする。

など今思えばどれも猿にでも見抜けるような荒唐無稽な芝居ではあったが、当時小学校低学年の僕は自分は人を欺く天才だと思いながら一生懸命これらの芝居をすることで、なんとか時間を伸ばそうとした。この頃から自分を高く評価することだけは得意であったようだ。

幸いな事にこれらの手を乱用しないだけの知性は持ち合わせていたようで、十中八九バレてはいたのだが、やりすぎて親の逆鱗に触れるということは無く、それなりに秩序を保ってゲーム生活を楽しんでいた。


そんな僕の秩序あるゲーム生活が狂い始めたのは小4での引越しのタイミングだろう。転勤族の父親が一念発起して一軒家、俗に言う「夢のマイホーム」というやつを購入したのだ。余談だがこの前見た動画によると、一軒家というのは35年ローンが一般的なのに対して築20年で資産価値がほぼゼロになるらしく、買い物としてはかなりリスクがあるものらしい。日本ではサザエさんの功績でマイホームを持つことは一般的に好印象で推奨される行為ではあるが、このブログを読んだ人はもしその時になったら「リスクが高い」ことを忘れずに冷静に購入を検討して欲しいと思う。

話を戻そう。一軒家ともなれば念願の個室が与えられるわけだが、親の目が届かないというのは子供の弱い部分、醜い部分を露呈させる。僕も例に漏れず自室でこっそりと約束時間以上のゲームをするようになりだした。タチが悪いのは小4で浅知恵がついたことにより、親の前でわざと30分測ってゲームをし、ルールを守ってることをアピールした上でこっそりと自室にゲームを持ち込むようになったのだ。この優等生気質というか、大人の前では猫を被りゴマを擦ることを怠らない姿勢は後に中学の内心稼ぎで役に立つのだが、人としては底辺である。

さらによろしくなかったのが、屋根裏部屋を寝る部屋として与えられたことだ。僕は早い時間に寝るフリをして屋根裏に上がり、ゲームをするようになった。親もわざわざ夜に屋根裏に上がっては来ないので自室よりも外敵がから心配が少ないというのが僕の悪行に拍車をかけた。一点だけ、家の構造上家が暗くなったあと屋根裏でゲームをすると光が漏れてしまうという難点があり、結果として布団をかぶってゲームをするようになった。視力はみるみるうちに落ちていった。これについては本当に反省してる。もっと反省してることは、視力が急に落ちたことを心配がった親に対し、素直にゲームのことを言えず、あろうことか「視力の低下って遺伝的なものもあるらしい。父さんが視力落ち出したのもこの時期だったらしいし、それが原因かも」と父親に罪をなすりつけてしまったことだ。しかも何故か両親共納得してしまい、父親に謝られた。当時はばれなかったことに対して「勝った!」という感情が勝っていたが、今となってはそれも含め自分が情けなくなる。

あとこれはちょっとした笑い話なのだが、布団をかぶってゲームをしていた時に母親に「寝たのー?」と聞かれ、慌てた僕は誰も見てないのにゲームを隠してから「寝た!」と元気に返事をしてしまった。「寝てたら返事できないだろ」と言われた時はすべての悪事がバレたようなバツの悪さを感じた。実際バレてたのだろうけど。


そんなこんなで親の目を盗んで遊んでいた僕だが、3DSの登場により悪事は加速する。3DSは誕生日プレゼントとして1万円援助してもらう形で自腹を買って購入し、最初は正しい方法で楽しんでいた。そんなある日興味本位で覗いた3DSのカセットをダウンロードできるシステム(Nintendo e-shopってやつ)でYouTubeのアイコンを見つけ、3DSYouTubeが観れるのかもしれないということに気づいてしまったのがよろしくなかった。当時は中学生だったが、ちょうどYouTubeが流行りだした頃だったような気がする。僕はケータイを買い与えられておらず、家のパソコンで見てたのだが、リビングにパソコンがあるためしばらく見てると親から「いつまで見てるの」と怒られた。YouTubeの良くない所は見たい動画を見ようと思って立ち上げてもオススメ欄に誘惑が転がっており、それを見たら関連動画が芋づる式で出てきて、転々としてるうちに時間が過ぎることである。いつも見たかった動画にたどり着く前に親からストップをかけられ悶々としていた。そんなYouTube3DSで観られるかもしれない。胸の高鳴りを抑えられなかった。早速試したところどうやらWiFiに繋がなければならないらしい。ただケータイも持ってない僕は本来WiFiなど必要がないし、当時は自宅にもあるものなのかもよく分かってなかった。そこで父親に「WiFiって最近聞くけどうちもあんの?」と探りを入れてみた。すると「ある」との返事が。「ふーん」と素っ気なく返したが内心はにっこり笑顔だった。

僕は親が外出して留守のタイミングをついてWiFiとやらを探すことにした。どうやらパスワードを打ち込むことで繋げられるらしい。パスワードのありかを探るべく家にある電子機器という電子機器を調べ、片っ端から書いてある文字列を打ち込みまくった。繋がった。1人で小躍りをしたその瞬間親が帰って来た。間一髪だった。だがとにかく僕はWiFiを手に入れたのだ。急いで屋根裏へ駆け上がりYouTubeをダウンロードした。画質こそ今では目も当てられないような酷いものであったが確かに動画を再生することができた。それだけで十分だった。それからはゲームなどやらずひたすら3DSで動画を見た。家族が興味ないバラエティの違法アップロードを1人で見たり、親の前では到底調べられないようなエッチなワードを入れてみたり、めちゃくちゃ楽しかったことは覚えている。その頃は30分のルールなどとうに頭の中から消え去り、夜な夜な何時間もYouTubeを見漁った。

こうして、ゲームに憧れて親に泣きながら土下座した純粋無垢な少年は、7年の時を経てついにゲームをやらなくなってしまったのだった。


こうして振り返ると親には謝罪の念が尽きない。そして今、一人暮らしをしている中でコロナの自粛も相まって1日二桁時間はSwitchと向き合い、無人島で擬似外出を楽しんでいるのであるが、それに付いてはまた次回触れようと思う。


寝れないから任天堂との歩みを振り返る②〜パールの思い出その2〜

現在時刻は3:55。今日は6時間昼寝をした俺が完全に悪いのだが、ちっとも眠くならないのでこの前の続きを書こうと思う。前回が一昨日だから、我ながら悪くないペースというか、寧ろ頑張りすぎな気もするが、寝れないのだから仕方ない。


前回のブログ、思ったより多くの人が閲覧してくれたみたいでなんだか嬉しかった。やはり家に引きこもってると、たまには自己承認欲求を満ち満ちに満たしたくなるのだなと再認識。

せっかく読んでもらうのだから少しは良いものにしようと思いブログの上手な書き方なるサイトを読んでみたのだが、今思えばこんなサイトを読むことは没個性への第一歩に過ぎず、負け以外の何物でもない。

負けといえば思い出すのはTHEゲームの事であり、今この文字列を読んだ瞬間「負けたわ」と悔しがる大学同期には申し訳ない気持ちも湧くが、僕が思い出してしまった以上道連れになってもらうこととしよう。(THEゲームについて知らない人が大半だろうが、この任天堂のくだりが自分の中でひと段落したらいつかネタにするのでスルーしてほしい)


少し脱線したが、読んだサイトに話を戻そう。サイトには「書くときの対象をみんなにするな」と「いきなり本題に入るな」的なことが書いてあった気がする。(多分他にも色々書いてあったけど、途中で我に返って読むのをやめたからこの2つしか記憶にない)ただ、1つ目については今回のブログはマジで第四世代のポケモンをやったことある人にしかわからないだろうし、2つ目についてもこうして長々と前振りしてるし、問題はないだろう。むしろ言われずとも出来てたことなので、読んだ時には「自分には才能があるかもしれない」くらいに思った。昔から根拠のない自信を持つことと、自分を高く評価することだけは得意としてきただけあって、今回も例に漏れず得意げになっているところである。


ここから本題に入るが、先ほども言った通り、ポケモンをやったこと無い人にはピンと来ない話だろうし、やったことある人にとっても冗長であるため、余程暇でないのならここでブラウザを閉じて他のことをすることをオススメする。ここまで読んでくれた時点で閲覧数として記録に残るため、僕の自己承認欲求は満たされるし、時間も無駄にならない、win-winの関係とはこのことである。


それでは始めよう。今回は僕がパールを初めてクリアするまでに印象に残ってる事をダラダラと、ひたすらダラダラと書く、そーゆー回である。


-進化と期待はずれ-

さて前回ポッチャマと旅に出た僕だが、旅を初めて最初のビッグイベントはやはり御三家の進化だった気がする。クロガネ炭鉱で16レベを迎えたポッチャマは無事ポッタイシとなった。バトルが終わったあと突然画面が暗くなった時はバグったかと、セーブしてないトラウマを思い出しかけたが、それは僕にとって初めての進化だった。アニメで進化の演出は何度か見てきたが、自分で育てたポケモンが進化する感動はひとしおだった。そう、ポッタイシのルックスが微妙でなければ。

僕がポッチャマを選んだのはひとえに可愛かったからだ。大きくて丸い頭、可愛い顔立ち、ポンチョを羽織ってるみたいな胴体。なのに進化したらなんとも中途半端なペンギンが現れたのである。丸かった頭は首とひとつながりになり、謎のツノが生え嘴と一体化し、目つきは悪くなった。純粋無垢な少年が中学でひねくれてしまったのを目の当たりにした時のような残念さ、それ以上のがっかり感がそこにはあった。

ポッタイシが悪いのではない。御三家の第2形態というのはそもそも不遇なポジションなのである。可愛い第1形態からかっこいい第3形態へと進化する間とあって、可愛いともかっこいいとも言えない微妙なルックスになってしまう。これは仕方ないことなのである。ジュプトルが出来すぎてるだけなのだ。ハヤシガメを見てみろ、あいつだってゴツゴツメットと大差ないじゃないか。

だが、初進化が感動よりも微妙さが上回ったのは間違いない。ごめん、ポッタイシ


-トラウマ回 vsナタネ-

僕は昔から奇を衒う人間である。アニメ編でサトシがムックルを仲間にした瞬間、僕の中でムックルを捕まえる選択肢はなくなった。これがすべての過ちの始まりだったのだと、今では思う。


ヒョウタポッタイシでボコボコにした僕はハクタイの森を抜けてハクタイシティについた。この間にコリンクルクシオになったが、かっこいいなくらいにしか思っておらず、まさかこいつとシンオウを心中することになるなんて、この時は夢にも思わなかった。さて、そんな僕にハクタイジムで絶望が待っていた。ロズレイドである。今考えても、1個目のジムでは14レベのズガイドスが最強だったのに、突然22レベの、しかも2進化の最終形態を使ってくるのは流石にセコイだろあれ。

怒涛の8連敗。

初めてナタネに挑んだ時はポッタイシが唯一レベル20を超えているだけで、あとは10レベル台だったため、冷静になれば当たり前の結果ではあるのだが、小1の僕にはあまりに厳しい現実過ぎた。ポッタイシのつつくでなんとか頑張るものの、ロズレイドのマジカルリーフでポッタイシを沈められ、半分まで削っても絶望のキズぐすり。当時は泣きながらナタネにお金を払い続け、ついには持ち金が底を尽きた記憶がある。今の僕を性格が悪いと非難する人がいるが、もし仮にそうだとしたら、多分このナタネが僕の性格を捻じ曲げた一人なのだと本気で思う。

僕がナタネに取った作戦はナエトルチェリンボルクシオで倒す、ロズレイドを出来る限りルクシオで削る、倒れたらポッタイシで頑張る。というものだった。 少し考えれば分かることだが、この戦法で負け続けるとルクシオのレベルだけがイタズラに上がる。結果としてルクシオが強くなり過ぎたために、ナタネに勝った時にはポッタイシの出番はなかった。

この時僕は冗談抜きで「こいつが最強ポケモンなのだ」とそう思った。これ以来僕はポッタイシを使うのをやめ、全ての戦闘においてルクシオレントラー)で戦うこととなる。

最初にムックルさえ捕まえておけばナタネに苦戦することも、こんなアホな思考に至ることもなかったのだろう。


-トラウマ回その2 vsキクノ-

ナタネの次に急にキクノかよ、と思った人も多かろう。(キクノは二人目の四天王)

なぜならナタネ戦以降、本当にレントラー以外使わなかった僕にとってこのあとキクノまではノンストップだったからである。それもそのはずだ、記憶してる限り、スモモ戦(一番強いのがルカリオ30レベ)の時点で42レベでパルキア戦(47レベ)の時には65レベまで育っていたのだ。全てをレベル差でねじ伏せてきたのである。デンジのエースである49レベのレントラーに対して67レベのレントラーを出した時の優越感と言ったらこの上なかった。


だが、不利属性、しかもこちらの電気技が無効となると話は変わってくる。

この時僕はポケモンリーグは負けてもやり直せるということを知らなかった。サトシがリーグで負けたらそこでその地方の話がひと段落だったからだ。負けたら終わり。それがポケモンリーグだと思っていた。

やり直しがきかない(と勝手に思っていた)僕が取った戦法は、戦う前にレポート書いておき、レントラー出す、ひたすら噛み砕く打つ、レントラーが倒れたら他のポケモンを生贄で出す、そいつが倒されるあいだにレントラーを回復させる、レントラー出す…をひたすら繰り返して全滅したら電源を消すというなんともチンパンなものだった。本当にキクノ戦は何回ぶち消したかわからない。あの時も泣きながら戦ってた気がする。とにかくカバルドン(54レベ)が硬くて、じしんが強かったこと、レントラー以外の手持ちがポッタイシとリオルとトゲピービーダルゴルバットだったことは覚えている。

最後は噛み砕くを急所に当ててなんとか沈めたが、この時になってようやく、僕はレントラーが実は強くないことに気がついたのだ。だってそうだろ。70レベにもなってほうでんと噛み砕くとかみなりのキバくらいしかまともな攻撃技覚えないんだもん。あいつ弱いよ。


とにかく、ポケモンリーグで一番強かったのは間違いなくキクノだったし、キクノ以降は運も味方してか、そこまで苦戦せずに、気づいたら呆気なく僕はシンオウ地方のチャンピオンになっていた。ポケモンリーグ初回制覇メンバーにリオルとトゲピーをレベル1のまま入れていたのは後にも先にも僕だけなのでは無いだろうか。


以上が今思い出せる僕のパールの思い出である。お付き合いいただきありがとうございます。

感想としては何より疲れた。気づけば2時間も経っている。何をしていたんだろう俺は。なぜ初めてのブログで14年も前の記憶を呼び起こしてひたすら書くなんてことをしようと思ったのだろう。そんな気持ちに襲われる。

ただ、まぁ懐かしさに浸りながら文章を書くのはそこそこ楽しかった。またパールを初めからやり直そうかな。そんで次はちゃんとポッタイシも愛してあげよう。多分ヒコザル選ぶけど。

寝れないから任天堂との歩みを振り返る①〜パールの思い出その1〜

現在時刻は3:21。コロナ自粛により完全に生活リズムを破壊され寝付くことが出来ない。ここ最近明るくなってから寝て、起きたら午後の真ん中にいる。一人暮らしは気楽で良いものだけど、こういう時に叱ってくれる人がいないのは寂しいなぁと思いつつ、今日もYouTubeで時間を溶かす。


さて、なぜ突然ブログなのか。

高校同期に面白いブログを書く人間がいて、それに憧れたからである。彼のような綺麗な言い回しや、読む人を魅き込む構成は到底出来ないのだが、twitterのように文字数に追われることなく、ただダラダラと自分の好きなことを書くのは楽しそうだなと彼の文を読んでて思った。

(というか、今までなんも気にしてなかったけど、ブログを書くのが得意な高校同期って普通にパワーに溢れてる。あの高校にいたから違和感なく受け入れてるけど、早々いないでしょ。ブログを書くのが得意で、涼しい顔で1000ファボ集めるツイートする高校の同期なんて。)

というわけで彼に憧れてブログを書いているわけなんだけど、ここまでで既に口調が定まってないし、ブログを書くのって難しいんだなって痛感してる次第である。

彼の文体に引っ張られがちだが、なんとか自分らしい文を書こうと思うので、暇な人は読んでくれたら嬉しい。どうせみんな暇でしょ。


で、何を書くか。最近はもっぱらSwitchでポケモンどうぶつの森しかやってないので、せっかくならこのことについて書いてみようかなと。

思えば僕が初めて手にしたゲームは「ポケットモンスター パール」だった。幼稚園の頃毎年ゲームボーイアドバンスをサンタに頼んでは叶わないを繰り返していた僕が初めてDSを手に入れたのは小1の頃である。普段は自分のわがままを一切言わなかった(今からは想像もつかないが、当時は本当に自己主張をしない人だった気がする)兄がある日突然、晩酌中の父親に涙ながらに「DSが無いと友達との会話についていけないから買ってくれ」と土下座で頼み込んだ時は弟として結構衝撃的だった。意味もわからず一緒に泣きながら土下座したこと、その姿にほだされた父親がつられて泣きながら購入を約束してくれたこと、「普段大人しい人が突然見せる本気には誰も勝てない」という僕の人生観はここから来てるのかもしれない。

その後「1日30分、2時間までは貯金(貯時間?)可」というルールで本当にDSがうちに来た時の感動は今でも覚えてるし、初めて電源をつけポッチャマと旅に出た時の興奮、セーブ機能を知らずにセーブせずに電源を切り、次につけた時にまたナナカマド博士が画面に出てきたときの絶望は今でも僕の人間性に影響を与えてる気がする。

(余談だが、僕はこの時から全てのポケモン作品においてパートナーは水タイプと決めている人)

ところで、兄弟2人で1つのセーブデータだったにも関わらず喧嘩せずに済んだのは、この時の絶望感から兄貴の熱が冷め、もっぱら僕が進める形になったからだったのだろうか。この辺りはあまり記憶が定かでない。


そんなこんなで旅を始めた僕だが、初めてするゲームは予想の何万倍も面白かった。今までテレビで見ることしかできなかったポケモン達を自分の手で繰り出し、技を指示し、レベルを上げる、進化させる。なんと楽しいことか。やはり増田順一は天才である。


というわけで1回目はここまでにしようと思う。次回はパールの具体的な旅の思い出でも綴ろうと思うので、やったことない人にとっては意味わからないだろうし、やったことある人にとってはそれなりに面白い文章になるんじゃないかと、未来の自分に期待して締めることとする。